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倭寇


 南北朝の動乱に続いて、室町幕府がその権力を確立していく14世紀後半から15世紀にかけて、日本だけでなく東アジア世界の情勢も大きくかわり、そこからあたらしい国際関係が形成された
このころ、倭寇とよばれた日本人を中心とする海賊集団が、朝鮮半島や中国大陸の沿岸で猛威をふるっていた。
倭寇の主要な根拠地は、対馬・壱岐・肥前松浦地方などで、その規模は、船2〜3隻の貧弱なものから、数百隻におよぶ組織化されたものまであった。
倭寇は、朝鮮半島沿岸の人々を捕虜にしたり、米や大豆などの食料をうばうなど略奪をほしいままにした。
倭寇の侵略になやまされた高麗は、日本に使者をおくって倭寇の禁止を求めたが、日本が内乱のさなかであったため成功しなかった。
 中国では、1368年朱元璋が元の支配を排して、漢民族の王朝である明を建国した。元寇ののちも元と日本のあいだに正式な外交関係はなく、私的な商船の往来があるにすぎなかったが、明は伝統的な中国を中心とする国際秩序の回復をめざし、明との通交を近隣の諸国によびかけた。
日本にも、通交と中国沿岸で活動している倭寇の禁止を求めてきた。
国内の統一を完成した義満は積極的にこれに応じ、1410年、明に使者を派遣して国交をひらいた。



勘合貿易


しかし、このような明を中心とする国際秩序のなかで行われた日明貿易は、日本国王が明の皇帝へ朝貢し、それに対する返礼という従属の形式(朝貢貿易)をとらなければならなかった。
遣明船は、明から交付された勘合とよばれる証票を持参することを義務付けられた。
この勘合貿易は1404年からはじまったが、4代将軍義持が朝貢形式に反対して一時中断し、6代将軍義教の1432年のときに再開された
この朝貢形式の貿易は、滞在費・運搬費などすべて明側が負担したから、日本側の利益は大きかった。
とくに大量にもたらされた銅銭は、日本の貨幣流通に大きな影響をあたえた。
やがて15世紀後半、幕府の衰退とともに、貿易の実権は、しだいに堺商人と結んだ細川氏や博多商人と結んだ大内氏の手に移った。
そして細川氏と大内氏の両者は激しく争って、1523年には、寧波で衝突をひきおこした。



日朝貿易


 結局は大内氏が競争に勝って貿易を独占したが、16世紀半ば大内氏の滅亡とともに勘合貿易も断絶した。
これとともにふたたび倭寇の活動が活発となり、豊臣秀吉による禁止まで続いた。
朝鮮半島では、1392年、倭寇を撃退して名声をあげた武将の李成桂が高麗をたおし、李氏朝鮮をたてた。
挑戦もまた通交と倭寇の禁止を日本に求め、義満もこれに応じたので両国のあいだに国交がひらかれた。
日朝貿易は明との貿易とちがって、はじめから幕府だけでなく守護大名・豪族・商人なども参加してさかんに行われたので、朝鮮側は、対馬の宗氏をとおして通交についての制度を定め、貿易を統制した。
 そののち、日朝貿易は応永の外寇によって一時中断したが、16世紀まで非常に活発に行われた。
朝鮮からのおもな輸入品は織物類で、とくに木綿は、当時日本で生産されていなかったので国内の需要が多く、大量に輸入され、衣料など人々の生活様式に大きな影響を与えた。
しかし、この日朝貿易も、1510年に三浦の乱が起こってからしだいにおとろえていった。